「許す・赦す」ってどう違うの?

若松えり子です

12ステッププログラムには、
「ゆるしのワーク」が最重要ステップとして
組み込まれているのですが、

よく心理学なんかでも、

「相手をゆるすことで、自分が楽になる」
「相手をゆるす=自分をゆるす」

というようなお話がありますが、

ひどいことをされた相手をそんな簡単に
ゆるすことができたら世話ないわけですよね、、。

様々な例がありますが、、

どんなに「ひどいこと」が起きたとしても
意味のない事は、一つもありません。

意味があるから、その事象が起きています。

そして、

自分の目の前(外側)に映っている事象は、

自分の内側に「在る」

から、外に反映しています。

自分の内側に、1ミクロも無ければ、

それは、視界に入りません。

まさに、相手は、「自分の鏡」

自分の中に入っているものが

相手に映っているだけ。

貴方は、
相手の何が「ゆるせない」と思っていますか?

または、

相手のどこが「気になる」のでしょうか。



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■「許し」とは、
__________________

「免許」の「許」にあるように「許可」
「与える」ですね。

少々上から目線な感じです。

例えば、

何かを「してしまった」人に対して
「しょうがない、でも許してやろう」
というような、、

ですが、逆に

■「赦し」とは、
__________________

何かを「してしまった」人と同じ目線になり、

そして、

その行為は、その時、その人にとっての
「最善だった」ということを
「受け容れる」ということ。

つまり・・・

__________________

「許し」が『点』

だとすると

「赦し」は『面』
__________________

「許し」は、

その行為(点)一つ一つ、
その都度エネルギーを消耗する

といった感じがありますが、

「赦し」ができるようになると、

面そのものが「愛」なので
「愛」の中で生きられるようになります。

ー 罪を憎んで、人を憎まず ー

結局、

相手を「ゆるせない」と思っている

のは、

自分自身を「ゆるせてない」

のですね。

ので、

相手の「何が」ゆるせないのか、
気になるのか

その「何が」の部分が
自分の中に「在る」

ということ。

つまり、

その「何が」の部分が
自分の中に「在る」ことを

「認め」、

「受け容れる」。

ということが、

「赦し」となる。

「面」そのものが「愛」

なので、

「愛」の中で、楽に生きられるようになる

のですね~^^

ですが、例えば、、

自分の大事な人が、何かの事件に巻き込まれて
「被害者」になった

「罪」を憎んでも、「人」を憎まず

とは言え、

本心は「ゆるさない!!」

と、心中穏やかにはいられないと思います。

「加害者」に負のエネルギーを向けてしまうでしょう。

ここに「学び」があるのですね。

世の中に「偶然」はありません。

起こる出来事は、すべて「必然」

自分の目の前に起きた出来事には、

どんな意味があるのか。

どんな学びができるのか。

「赦す」の次にでてくるものは、

「自己責任」

受け容れたあと、

「自分が」どうするのか。

「赦し」「責任」「愛」

ここの域に達することができれば、
魂はぐんと輝くのです。

乗り越えられない「問題・苦難」は決して
来ませんから~

目の前に、

それが来た、映っている

ということは、

「それを乗り越える魂の体力がついてるよ」

ということですから~~

では今日は、この辺で~☆

ー来年の瞑想会についてー

来年2月の初旬頃
瞑想会を予定しております。

また来年になりましたら、
このメールレターにてお知らせいたしますので、もうしばらくお待ちくださいね☆

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